【案内人ブログ】No.19(2018年10月)

文学散歩について

  

三浦綾子読書会旭川全国大会2018が終りました。今年は「文学館の展示リニューアル、三浦家の心臓部である書斎を移築した分館オープンに合わせ、三浦夫妻の歩みをたどり直し、この20年の三浦文学の働きを振り返る」(参加募集パンフレット)大会でした。

その中で、2日目の9月28日の文学散歩は三浦綾子の自伝や作品のゆかりの場所をたどり、天人峡(作品は「自我の構図」)や東川の中国人殉難慰霊碑(「青い棘」)、春光台の前川正と綾子さん(「道ありき」)、近文の長野政雄氏の墓碑(「塩狩峠」)などのコースをバスでまわりました。

案内人はいつもは文学館の中で三浦綾子の生涯や作品を紹介していますが、今回の文学散歩では文学館の外に出て、見て、聞いて、感じる三浦綾子が生活した場所や作品の舞台を案内しました。

今回の文学散歩の案内をするために、数か月かけて案内人間で下見会を何回か繰り返し、関係者の話を聞く等しました。

私が担当した文学散歩では、春光台公園の前川正さんと綾子さんの足跡をたどりました。

前川正さんと綾子さんが連れだって歩いた春光台の道がどこか、今はまだ特定することは出来ていません。(熱心な方が当時の住民から聞き取りをするなどして前川正さんと綾子さんが歩いた道を特定しようとしています)

春光台公園の地図の自然散策路を展望ポイントまで、ゆっくり10分ほど歩きます。(歩くのが大変という方は、広場のベンチに座って待っていてくださっても良いようにしていました)

展望ポイントの丘から、前川正さんと綾子さんが見渡したであろう、旭川市内を一望することができます。その後、『道ありき』文学碑のある駐車場に向かいます。

駐車場に向かうバスの中では、『道ありき』文学碑のご紹介をしました。

『道ありき』文学碑は、4年前の2014年6月に建てられました。

『道ありき』文学碑を制作した彫刻家の長澤裕子さんは「道ありき」を読み、綾子さんの思いを想像して「出会う」「手渡す」「受け取る」等15くらいのキーワードが浮かんできて制作したと言います。文学碑というとお墓の墓石のようなものに碑文が書かれていると思われるかも知れませんが、「道ありき文学碑」は彫刻家が制作した彫刻です。ご覧になって、感触をつかんでみてください。
長澤裕子さんが言われているように、この春光台は、綾子さんが「三浦綾子」になるべく導かれた大切な場所です。

自伝小説『道ありき』の中から、春光台にまつわるストーリー

敗戦と同時にアメリカ軍が進駐してきて、綾子は子供たちに国定教科書へ墨をぬらさせなければならず、今までの日本(の教育)が間違っていたのかと、綾子は潔く退職して誰かのお嫁さんにでもなってしまおうと考え、二人の男性と同時に婚約しました。その一人、愛国飛行場のグライダーの教官Tは、その2年後に肺結核で死亡しました。もう一人の婚約者西中一郎の兄が結納を持って来たその日、綾子は脳貧血を起こし倒れてしまいました。綾子は結核を発病し、昭和21年6月には結核療養所白雲荘に入所、13年に及ぶ闘病生活が始まります。

昭和24年6月、綾子の病気はいつ治るかわからない、生きて人に迷惑をかけるよりは死んだ方がいいのではないかと、結婚を3年待ってくれていた西中一郎の住む斜里に行き、婚約を破棄し、その足でオホーツク海に入り自殺しようとしましたが、引きとめられて未遂に終わりました。

旭川に帰って来ると、幼なじみの前川正が待っていて、綾子を春光台の丘に誘いました。郭公が鳴いているその丘は、元陸軍の演習場でした。一軒の家もなく、見渡す限りただ緑の野に、所々楢の木が立っていました。旭川の街が、6月の日の下に眠っているように静かでした。旭川の街を見おろす丘に立ち、前川正は「ここに来たら少しは楽しいでしょう」と言いましたが、綾子にとって、もう生きるということはどうでもよかった。むしろいつ死ぬかが問題でした。

前川正は「綾ちゃん、おねがいだからもっとまじめに生きてください」と哀願しました。

綾子は、「正さん、またお説教なの、まじめっていったいどんなことなの?」と言い返しました。すると、前川正は、

「綾ちゃん、だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」と叫ぶように言うと、傍らの小石を広いあげ、自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。

「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりません。・・けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから不甲斐ない自分を罰するために,こうして自分を打ち続けやるのです」

その時、綾子は、前川正の愛が全身を貫くのを感じました。だまされたと思って、前川正の生きる方向について行って見ようかと思いました。

それからふたりは時々連れだって、春光台の丘に行きました。

翌年、昭和25年5月お菓子屋でお菓子を買って丘に行き、自分たちが住む街が、紫色に美しくけぶるのを眺めながら、いつものように短歌や、小説の話などをしました。

前川正は、若草の上にひざまずいて、二人のために祈りました。「父なる御神、わたしたちは……共に病身の身です。しかし、この短い生涯を、真実に生き通すことができますようにお守りください」

そして、綾子には「一生懸命生きましょうね」と言った前川正の言葉が、『道ありき』を執筆しているその時も聞こえてくるような気がしたのです。

それから2年後の昭和27年7月5日、綾子は入院先の札幌医大病院で洗礼を受け、クリスチャンになり、さらに2年後の昭和29年5月2日、前川正は亡くなりました。

by 案内人 山崎健一