【案内人ブログ】No.25(2019年4月)

オジロワシと鮭

私は三浦綾子記念文学館で案内人のボランティアをしているが、「旭川野鳥の会」にも所属し、趣味でバードウォッチングを楽しんでもいる。会に入って最初のうちは、内陸や山岳部に住む、鳴き声の美しい鳥に魅きつけられていたが、最近はもっぱらオジロワシに興味を持つようになって来た。というのは、最近の新聞記事で、札幌中心部を流れる豊平川あたりでもオジロワシを見かけるようになった。それは、どうも豊平川に鮭の回帰が増えていることと関係しているらしい。もっとも、そんなことには気付かずに通り過ぎていく人が大半のようであるが、という記事であった。何年か前に鮭の溯上を止めていた、深川の花園頭首口に、魚道が設けられ、私の住む旭川でも鮭の回帰は増えていると実感している。3年ほど前に「大雪と石狩の自然を守る会」会長の寺島一男先生に連れられて、忠別川の緑東大橋付近で、溯上してきた鮭を自分の目で見た時の興奮を鮮やかに思い出す。鮭は長い海洋生活を経た後に、自分が生まれた川に産卵のために帰ってくる。どのようにして自分の生まれた川を発見するのかについては、諸説がありはっきりとはしていない。鮭は清流の川にしか卵を産まないので、これがあるということは、自然が残っている、あるいは保護されていることのバロメーターのようになっている。その上に、生態系の頂点に存在するオジロワシの姿も見られるとなれば、それは実にすばらしいことなのだ。

昨年秋に、旭川野鳥の会の仲間たちとサロマ湖のキネアネップ岬に行った時のことを思い出す。自分の持っている双眼鏡を通してみたオジロワシの姿は吹き出したくなるようなものだった。一羽のオジロワシが一匹の鮭を足元に踏みしだいている。それをまるで護衛するかのように、にらみをきかせるもう一羽のオジロワシ。その周りを「僕たちにもくれよ」と言うかのように、ウロウロしている三羽のカラス。「いやだ、やらないよ」と言っているように見える、オジロワシの姿。そのうちにバトルが始まった。

オジロワシは文学館に近い美瑛川では見ることはできないが、石狩川の永山新川に近い上流付近や、まれに常磐公園あたりでも見ることができる。国の天然記念物であり、国RDB絶滅危惧種でもある。

文学館のある外国樹種見本林では、アカゲラの食痕を見ることができる、エゾエンゴサクや福寿草、桜が咲き出す春は、もうそこまで来ている。私たち案内人は、文学館と三浦綾子さんを案内するとともに見本林についての案内もできるように準備している。文学館にお越しの際には、ぜひ見本林も散策されることをおすすめする。

三浦綾子さんは、東京へ移り住まないかといろいろな人からすすめられてもそれを断り、終生この旭川に住み、旭川で書くことにこだわり続けた。それはなぜそうだったのかを感じとって頂ければと思う。

by 三浦文学案内人 三浦隆一

Share

【案内人ブログ】No.24(2019年3月)

私のおすすめの本

三浦綾子のエッセイ集『一日の苦労は、その日だけで十分です』の中から一編を紹介させて頂きます。
ある日、綾子さんに一通のはがきが届きました。

私こと
この度死去いたしましたのでご連絡申し上げます。〇〇頃より体力が衰え手厚い看護を受け○○日に〇〇歳でこちらへ参りました
お受けした温いお心ありがとうございました
片岡ハル 冥土の地にて

あの世からの手紙ですから、綾子さんも驚きます。笑わせ上手の片岡さんの冗談かと思われましたが、そうではありませんでした。手紙は自筆のコピーで娘さんからの添え書きがあり、亡くなってから一ヶ月後に投函するようにとの遺言があったとのことでした。
実は、私も縁あってこの手紙を片岡さんから頂いていたのです。大変驚きましたが、何と格好いいのだろうと思った記憶があります。
この片岡ハルさんは、綾子さんが療養していた旭川の結核療養所「白雲荘」の婦長さんをされていた方です。心が沈みがちな患者さんたちをいつも笑わせ、療養所内は明るくなっていきました。男性患者がニセ医者に、綾子さんがニセ看護婦に扮して、新しく入所した患者さんを皆でだまして笑い合うことができたのも、片岡婦長の人柄、存在が大きかったと書かれています。この頃の綾子さん、生きることに否定的な思いを持っていたのですけれど、片岡さんとの出会いは、少なからず後の綾子さんのお考えに影響があったのかもしれませんね。
綾子さんは、「この手紙を真似て格好よく去って行きたいけれど、どこかニセ者臭さがあって、片岡さんのようにスッとこの世からあの世へ移っていくのは無理だ」と思われたそうで。
このエッセイは死について書かれていますけれど、淋しさや暗さを感じさせずに共感できました。
ちなみに片岡ハルさんについては、エッセイ集『私のあかい手帖から』にも書かれていて、心がほっこり暖かくなります。これも私の大好きな一冊です。綾子さんの感性と想いがたっぷり詰まっています。
『一日の苦労は、その日だけで十分です』のどこかに一日の貴方の想いを軽やかにしてくれる一編がきっとあります。どうぞ愛読書になさってください。

綾子さんがまだパーキンソン病を発病される前に、三浦光世さん・綾子さんをお尋ねして、沢山のお話をさせて頂き、ずっと手を握って下さっていた感動は、何年経っても色あせません。そして今、三浦文学案内人として綾子さんの愛を日々感じながら、この不思議なご縁を大切に文学館と関わらせて頂きたいと思います。

by 三浦文学案内人 山川弘子

Share

【案内人ブログ】No.23(2019年2月)

「三浦綾子文学の道」モニュメントの制作者 長澤裕子さんにお会いして

彫刻家・長澤裕子さん

成人の日が終わって、お正月気分もぬけた1月18日金曜日、私達(山崎・戸島)は彫刻家長澤裕子さんにお話をうかがう機会を得ました。

『道ありき』文学碑(旭川市春光台公園)

長澤さんは、ご存知の方も多いと思いますが、あの『道ありき』文学碑の制作者です。この方の作品が、あらたに「三浦綾子文学の道」と名付けられた国道237から文学館までの市道に、昨年11月16日、設置されたのです。

外国樹種見本林に向かう左側の歩道に建てられた180㎝のモニュメント「愛の道」。「愛」の文字は綾子さんの手によるもので、赤い彩色がほどこされています。
長澤さんによるとこのモニュメントは、綾子さんと光世さんが寄り添って歩いておられる写真をご覧になったところから発想されたそうです。

人と人が寄り添って歩く いろいろな思いを分かち合って歩く…
これは文学碑『道ありき』のテーマでもあります
そんな道の「道しるべ」になれば…
わくわくとかドキドキとか、何かしらの思いをもって文学館を訪れた人が、希望をもって帰る
その足取りはスキップしてるかも…
踊ってるかも…

長澤さんのお話をうかがっていると、モニュメントの真中に穿たれた穴からは、なるほど光が差し込んできます。
旭川市は当初、「三浦綾子文学の道」という標識だけを設置する考えだったようですが、こんな素敵なモニュメントが建てられて本当にうれしい!!

綾子さん達は、世に出した作品を「わたしたちの子供」といっておられましたが、長澤さんも、ご自分の作品が手を離れていくときは、お嫁に出す心境だそうです。作品がその置かれたところで、なでられたり抱かれたりして、その人の心に残っていく、彫刻もその風合いを変えていく。「彫刻は生きている」と言われるそうで、それは幸せなことだとおっしゃっていました。

彼女の温かな人間味あふれるお話は、綾子さんの人間性に重なるように感じられて、私達はすっかり長澤フアンになってしまいました。今後の予定として、9月の札幌での個展のことなど未発表のことまでお聞きしたのですが、「ぜひ拝見したい!」「札幌まで行きたい!」「旭川で展覧会があったらもっとうれしい!」と思ったことでした。
これからも、三浦綾子の作品をテーマにした彫刻が、彼女の手によって世に出されることを祈りながら、amie工房(旭川市旭町)での楽しいランチを終えました。

長澤さん、貴重な時間をさいて和寒町からの冬道、わざわざお越しくださったことに感謝します。ありがとうございました。ますますのご活躍を祈っています。

by 三浦文学案内人 戸島雅子

Share

【案内人ブログ】No.22(2019年1月)

『塩狩峠』その後の物語

こんにちは。近藤弘子です。

今回は、2018年12月24日に行われた、旭川に住む作家さん3人の朗読会のことを報告します。私達案内人の講師である森下辰衛先生が出演し、『雪柳~ふじ子から天国の永野信夫への手紙』というご自身の小説の一部を朗読しました。

クリスマスイブ!ツルツル道路なのに、会場は人でいっぱい。50名までは数えましたが、パイプ椅子を出すほどの盛況ぶり!

『塩狩峠』ファンの方なら、一度は「ふじ子さんは、その後どうなったんだろう?」と考えるのではないでしょうか。

綾子さんのように前川正さんを亡くし悲しんでいたのに、一年後、光世さんが現れた!

でも、ふじ子さんはどうだろう?

永野さんにソックリな人でも現れるのか?

そこは文学館の特別研究員である先生です。

教会の少ない資料から調べ上げ、現実味があるのです。

ふじ子さんが大阪に住む永野さんのお母様に逢いに行き、二人とも泣いたこと!

乗客がふじ子さんと二人であったとしても、永野さんは守ってくれたはず!

うんうん、そうだ、ありそうだ!!

などと、一人考え聴き入っていた私でした。

 

今年の2月28日はモデルである長野政雄さんが殉職された110年目になります。

改めて『塩狩峠』のすばらしさを知って頂き、読み継がれていってほしい本です。

 

by 三浦文学案内人 近藤弘子

Share

【案内人ブログ】No.21(2018年12月)

「三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林」が北海道遺産となる

北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、次世代へ継承したいものとして、北海道遺産構想推進協議会が選定する「北海道遺産」というシステムがある。
平成13年10月、第1回選定分として稚内港北防波堤ドーム(稚内市)など25件が選定された。平成16年10月、第2回選定分として旭橋(旭川市)など27件が選定された。そして平成30年11月、北海道命名150年記念を念頭においた第3回選定分として、「三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林」など15件が新たに選定された。これをもって、北海道遺産の認定は全部で67件となった。

この朗報に私たち関係者は心から喜び、三浦文学ワールドを後世に引き継ぐ決意を新たにしているところである。今年、三浦綾子記念文学館は開館20周年を迎えた。9月29日の記念式典等は、9月6日胆振東部地震の影響でことごとく取り止めとなったが、今回の快挙はそれらを補って余りあるものであった。
去る9月29日オープンした分館の目玉は、何といっても三浦家の書斎の移設である。

では分館を巡ってみよう。最初に現れるのが受付と多目的室である。多目的室の口述筆記体験コーナーはユニークであり、小学生たちの人気を集めている。テーブルや椅子、ベンチは「旭川家具」で統一されている。ちなみに、この旭川家具も今般北海道遺産に選定された仲間であり、その逸品が室内に配置されている。

廊下を経た小説『氷点』『続氷点』の展示室は、作品のあらすじが詳しく紹介されており、三浦文学ファンにとっては実に魅力的な世界が出現した。『氷点』の主題は「原罪」、『続氷点』の主題は「ゆるし」である。罪には「ゆるし」が必要不可欠である。「ゆるし」があって初めて私たちはこの世の中を生きていくことができるのだ。この展示室の奥では、モニターで田中綾館長と森下特別研究員の映像(15分)が流れている。『氷点』『続氷点』のミニ文学講座で自由にご覧頂けるので、ぜひ視聴して見聞を広めて頂きたいものである。
書斎中央には大きな長机がある。綾子さんと光世さんが向かい合って座り、綾子さんが語り光世さんが書きとる様子が目に見えるようである。時折、綾子さんは立ち上がって長机の周りを歩き回る。そんな姿すら容易に思い起こさせる貴重な空間だ。左窓の上には額装された賀川豊彦先生の書「博愛衆及」(人間相互の助け合いを「博愛」として、それがすべての民衆に広がること)が掲げられている。隅っこの三角柱の形をした棚には、最上段に綾子さん光世さんのそれぞれの両親の写真が置かれ、中段にはジュエリーボックスや白布に包まれた小箱(前川さんが手術で取り除いた肋骨の一部が入っていて、前川さんから綾子さんに渡したもの)が置かれている。

『氷点』『続氷点』の世界を追体験できる外国樹種見本林の入口には『氷点』文学碑が建っている。
「風は全くない。東の空に入道雲が高く陽に輝やいて、作りつけたよう動かない。(以下略)」
三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林は、これからなが~い冬を迎える。

「冬来たりなば春遠からじ」。三浦文学案内人一同、皆様のご来館をお待ちいたしております。

by 三浦文学案内人 森敏雄

Share

【案内人ブログ】No.20(2018年11月)

2018年9月29日 分館オープン

塩狩峠記念館(『氷点』が生まれた三浦家旧宅)のような、雪国らしい屋根の外観

分館に入ると、多目的室の大きな窓から息を呑むような景色が目に飛び込んでくる

ストローブ松の林、

木漏れ日、

巣箱の周りを飛び交う小鳥たち

時折、愛くるしいエゾリスたちが鬼ごっこをし、私達を迎えてくれる

風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。

『氷点』の書き出しを思い起こさせる

奥に進むと、『泥流地帯』『海嶺』『母』『銃口』などを生み出した書斎が見えてくる

窓際にはタンスや本棚が並び、中央には一畳ほどの机が置かれている

お片付けの苦手な綾子さんの一面が伺える

この机に向かい合って、光世さんと綾子さんの口述筆記が行われた

擦り切れた畳の跡が在りし日の綾子さんを偲ばせる

後ろを振り返ると展示ケース

応募原稿、一千万円懸賞小説当選通知、『氷点』『続氷点』の創作ノートや原稿

当日、270人あまりのファンが道内外から駆け付けてくださった

「ここで、多くの作品が生まれたんですね」と言って涙ぐみ、何時までも佇んでいる人

綾子さんは、何処でどんな思いでこの日を迎えたのだろう

いつも感謝の言葉を口にしていた、お二人の笑顔がよみがえってくる

by 三浦文学案内人 富樫育代

 

Share

【案内人ブログ】No.19(2018年10月)

文学散歩について

  

三浦綾子読書会旭川全国大会2018が終りました。今年は「文学館の展示リニューアル、三浦家の心臓部である書斎を移築した分館オープンに合わせ、三浦夫妻の歩みをたどり直し、この20年の三浦文学の働きを振り返る」(参加募集パンフレット)大会でした。

その中で、2日目の9月28日の文学散歩は三浦綾子の自伝や作品のゆかりの場所をたどり、天人峡(作品は「自我の構図」)や東川の中国人殉難慰霊碑(「青い棘」)、春光台の前川正と綾子さん(「道ありき」)、近文の長野政雄氏の墓碑(「塩狩峠」)などのコースをバスでまわりました。

案内人はいつもは文学館の中で三浦綾子の生涯や作品を紹介していますが、今回の文学散歩では文学館の外に出て、見て、聞いて、感じる三浦綾子が生活した場所や作品の舞台を案内しました。

今回の文学散歩の案内をするために、数か月かけて案内人間で下見会を何回か繰り返し、関係者の話を聞く等しました。

私が担当した文学散歩では、春光台公園の前川正さんと綾子さんの足跡をたどりました。

前川正さんと綾子さんが連れだって歩いた春光台の道がどこか、今はまだ特定することは出来ていません。(熱心な方が当時の住民から聞き取りをするなどして前川正さんと綾子さんが歩いた道を特定しようとしています)

春光台公園の地図の自然散策路を展望ポイントまで、ゆっくり10分ほど歩きます。(歩くのが大変という方は、広場のベンチに座って待っていてくださっても良いようにしていました)

展望ポイントの丘から、前川正さんと綾子さんが見渡したであろう、旭川市内を一望することができます。その後、『道ありき』文学碑のある駐車場に向かいます。

駐車場に向かうバスの中では、『道ありき』文学碑のご紹介をしました。

『道ありき』文学碑は、4年前の2014年6月に建てられました。

『道ありき』文学碑を制作した彫刻家の長澤裕子さんは「道ありき」を読み、綾子さんの思いを想像して「出会う」「手渡す」「受け取る」等15くらいのキーワードが浮かんできて制作したと言います。文学碑というとお墓の墓石のようなものに碑文が書かれていると思われるかも知れませんが、「道ありき文学碑」は彫刻家が制作した彫刻です。ご覧になって、感触をつかんでみてください。
長澤裕子さんが言われているように、この春光台は、綾子さんが「三浦綾子」になるべく導かれた大切な場所です。

自伝小説『道ありき』の中から、春光台にまつわるストーリー

敗戦と同時にアメリカ軍が進駐してきて、綾子は子供たちに国定教科書へ墨をぬらさせなければならず、今までの日本(の教育)が間違っていたのかと、綾子は潔く退職して誰かのお嫁さんにでもなってしまおうと考え、二人の男性と同時に婚約しました。その一人、愛国飛行場のグライダーの教官Tは、その2年後に肺結核で死亡しました。もう一人の婚約者西中一郎の兄が結納を持って来たその日、綾子は脳貧血を起こし倒れてしまいました。綾子は結核を発病し、昭和21年6月には結核療養所白雲荘に入所、13年に及ぶ闘病生活が始まります。

昭和24年6月、綾子の病気はいつ治るかわからない、生きて人に迷惑をかけるよりは死んだ方がいいのではないかと、結婚を3年待ってくれていた西中一郎の住む斜里に行き、婚約を破棄し、その足でオホーツク海に入り自殺しようとしましたが、引きとめられて未遂に終わりました。

旭川に帰って来ると、幼なじみの前川正が待っていて、綾子を春光台の丘に誘いました。郭公が鳴いているその丘は、元陸軍の演習場でした。一軒の家もなく、見渡す限りただ緑の野に、所々楢の木が立っていました。旭川の街が、6月の日の下に眠っているように静かでした。旭川の街を見おろす丘に立ち、前川正は「ここに来たら少しは楽しいでしょう」と言いましたが、綾子にとって、もう生きるということはどうでもよかった。むしろいつ死ぬかが問題でした。

前川正は「綾ちゃん、おねがいだからもっとまじめに生きてください」と哀願しました。

綾子は、「正さん、またお説教なの、まじめっていったいどんなことなの?」と言い返しました。すると、前川正は、

「綾ちゃん、だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」と叫ぶように言うと、傍らの小石を広いあげ、自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。

「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりません。・・けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから不甲斐ない自分を罰するために,こうして自分を打ち続けやるのです」

その時、綾子は、前川正の愛が全身を貫くのを感じました。だまされたと思って、前川正の生きる方向について行って見ようかと思いました。

それからふたりは時々連れだって、春光台の丘に行きました。

翌年、昭和25年5月お菓子屋でお菓子を買って丘に行き、自分たちが住む街が、紫色に美しくけぶるのを眺めながら、いつものように短歌や、小説の話などをしました。

前川正は、若草の上にひざまずいて、二人のために祈りました。「父なる御神、わたしたちは……共に病身の身です。しかし、この短い生涯を、真実に生き通すことができますようにお守りください」

そして、綾子には「一生懸命生きましょうね」と言った前川正の言葉が、『道ありき』を執筆しているその時も聞こえてくるような気がしたのです。

それから2年後の昭和27年7月5日、綾子は入院先の札幌医大病院で洗礼を受け、クリスチャンになり、さらに2年後の昭和29年5月2日、前川正は亡くなりました。

by 案内人 山崎健一

Share

【案内人ブログ】No.18(2018年9月)

出会いが楽しい

  

今年4月から案内人になりました、若葉マークの案内人です。

3年間、森下辰衛先生の講義を受け出席日数だけで受かりました。案内をする覚悟を決めてから、綾子さんの誕生日、命日など必死に覚えました。現在、仕事もしているので月1回くらいしかできませんが、お盆休みの時、沢山の来館者にお会いしました。

その中に「愛知県から来ました」と言う男性がいらっしゃったのです。「『海嶺』の知多半島に去年行ってきました」と言うと、「本に出てくる者の子孫です」とのこと……!

音吉の妹「さと」の関係者でした。案内人をするようになって、日本全国、韓国、中国からも来て頂いていることに、改めて三浦綾子さんの偉大さを感じました。

by三浦文学案内人 藤田眞智子

 

★『海嶺』  1978年10月~1980年10月 週刊朝日連載、1981年4月 朝日新聞社より刊行。現在は、角川文庫 上・中・下で販売中
江戸後期、遭難した漁師・音吉たちは奇跡的に北アメリカに漂着するが、マカハ族に捕らえられ、奴隷にされてしまう。逆境の中、諦めることなく、希望を持って生き抜く男たちを描いた感動の時代巨編。
綾子は連載終盤に帯状疱疹(ヘルペス)にかかり、1980年4月入院し、5月30日~8月15日まで休載した。

Share

【案内人ブログ】No.17(2018年8月)

「いいこと、ありますように」

皆さんは、北海道新聞の7月15日(日)28面をご覧になりましたか?

『泥流地帯』映画化朗読で後押しのタイトル記事です。

 

上富良野高校の学校祭で、生徒5人が『いいことありますように』の朗読劇45分間を午前と午後の2回上演しました。

私は午後1時からの回を見ましたが……

スゴイ!! 君たちプロかい?

45分……出ずっぱり!教師役の2年生は、台本をほとんど見ず、他の高校生役も自然体でした(あたりまえ!)。

後から聞くと、午前中の失敗をチェックしたとか!!

三浦文学館の難波事務局長から台本を渡されてまだ一ヶ月もたっていない!高校生のパワーってすごい!!

そして「富良野GROUP」の女優、森上千絵さんの指導!本格的すぎだよ!!

朗読中に涙をふいている方も多数(もちろん、その中の1人は私です)いらっしゃって、感動しました。お昼をたべるヒマなく行った甲斐がありました。ありがとう!!

by三浦文学案内人  近藤弘子

Share

【案内人ブログ】No.16(2018年7月)

増田明美さんといっしょに歩く「氷点」の舞台見本林ウオークから思うこと

6月9日(土)、マラソンランナーの増田明美さんが外国樹種見本林(以下「見本林」という)の中にある三浦綾子記念文学館(以下「文学館」という)に来た。
文学館開館20周年記念行事として「増田明美さんといっしょに歩く、『氷点』の舞台・見本林ウォーク」が開催されたのだ。増田さんは、三浦文学のファンで文学館が開館した20年前にも来ていたという。増田さんは文学館で記念の集合写真をとり短いお話をした後、1時間、ウオーキング参加者70名と談笑しながら初夏の清々しい見本林の中を散策した。

三浦綾子の小説『氷点』ではこの見本林の松林のすぐ傍らに、主人公の家、和、洋館からなる辻口病院長邸が、ひっそりと建っていた。この家で成長した陽子は見本林の中のストローブマツの切り株に座って『嵐が丘』を読んでいて、後に恋人になる北原邦雄と出会った。母・夏枝に、辻口夫婦の長女ルリ子を殺した犯人の娘だと言われた陽子は、見本林の中の堤防を越えた川原を死に場所に選び、睡眠薬を飲んで雪の上に横たわった等々、見本林は『氷点』の舞台になっている。(文学館には詳細な見本林マップがある)

見本林は旭川の気候のもとでストローブマツやヨーロッパカラマツといった外国樹種がどのように育つかを調べるため、1898年(明治31年)、明治政府が苗木の植栽を始めた。ちょうど100年後の1998年、その見本林の中に文学館が建てられた。

私は、今回のウォーキングで、かって三浦綾子もどんな思いで見本林を歩いたか、また三浦綾子と見本林の関わりについて思った。そこで少しわかったのは、三浦綾子がこの見本林を訪れた時の名状し難い感動がなければ、この小説『氷点』を書くことがなかったのではないか。見本林は、三浦綾子にとって特別な場所ではないかということである。見本林の中にある文学館は今年、開館20周年。今年9月には、三浦綾子がたくさんの作品をつくつた書斎が新たに文学館の隣に移ってくることで、三浦綾子と見本林の関係はいっそう深まるであろう。

この見本林を三浦夫婦が二人で初めて訪れたのは、結婚2年目の6月である。三浦綾子はその時のことを次のように書いている。
「林に着くと丈高いストローブマツが風に揺れ、その梢が天をかきまわすようにうごめいていた。林の中の道を通って、堤防に上ったわたしは、その向こうにまた、うっそうと繁る暗いドイツトーヒの林が続くのを見た」(この土の器をも)
その林に一歩足を踏み入れた時、三浦綾子は、
「名状し難い感動に襲われた。暗い林の中に、光が縞目をつくって斜めに射し、その縞目もおぼろな彼方に、光が煙のように漂っていた」(この土の器をも)
その時の印象が、あまりに強烈であったため、三浦綾子は小説の筋が決まると、ここを舞台に決めたのである。そして昼となく夜となく何度も見本林を訪れて、小説『氷点』を書いた。

by三浦文学案内人  山崎健一

Share